インタビュー

vol.05 井藤憲次会長 怒涛の5000字インタビュー編

井藤会長が入社された頃はどんな会社だったのですか?
私の入社は昭和47年2月(1972年)です。その頃は浅草と、千葉の高根に家具屋があって、私は高根店に配属になりました。
当時、千葉県には谷津遊園という遊園地があって、そこで家具の即席販売もしていました。アトラクションと称してウルトラマンの着ぐるみを着てヒーローショーをするんです。それを見に来た家族連れに家具を売るんですね。私も怪獣のきぐるみを着てお客を集めてましたよ。(笑)
会長自ら着ぐるみに入っていたんですか!?
いや~、その頃は私だってまだ20代前半ですから(笑)それから当時は相撲の国技館が、両国でなく蔵前にありまして、その国技館を使って婚礼タンスを年2回販売してました。春と秋が婚礼シーズンでしたので、それに合わせて結婚式を挙げるお客さんを集めてウエディングドレスの衣装合わせをするんです。その横に家具を並べさせてもらって販売したわけです。
色々なところで家具を売っていたんですね。
私は税理士になるための勉強をしていましたので、義理の父(二代目社長)に頼まれて仕事を始めましたが、3年くらい手伝えばいいかな?なんて思っていたんです。ところが入社してみると自転車操業で、財務を見る人がいないんですね。これはまずいとおもって会社に残る事にしました。
家具のお店はどんな感じで経営されていたんですか?
昭和50年代前後は、千葉や埼玉が東京のベットタウンになり、人の流れが変わったことで、繁盛していた浅草の本店の売り上げが悪くなってきたんです。「今後は都内の商売で採算が合うのか?郊外に店を構えるべきではないか」と考え、徐々に千葉のボーリング場を借りて出店をしていきました。
ボーリング場ですか?
当時はボーリングブームが去り閉店したボーリング場がたくさんありました。ボーリング場というのは天井も高いし、大きなスペースが取れるので、家具屋をするのにちょうどいい大きさなんですね。ガラーンとしてるでしょう(笑)そんな風にして京成線の実籾店や、千葉の幸町店をオープンさせました。その後、浅草の本店は事務所だけを残して閉店しました。
なるほど、船橋花輪インターの大型店舗ができたのは、その後ですか?
そうです。それまで千葉では店舗を借りて営業していたのですが、自社ビルの店をオープンしたいという想いがあり、ずっと場所を探していたんですね。さまざまな人の協力があり、昭和55年に花輪インター出口1分のところにお店が出せる事になって、これまでになかった大型の店舗をオープンする事ができました。他のすべてのお店を閉め、販売員のすべてを集めて、会社の総力を結集してスタートさせました。
凄いですね。花輪インターのお店はうまくいったのですか?
いや~、それが最初はかなり苦戦したんですよ。ただ、私たちにとって良かったのは、高速道路から良く見えて、出口を出たら目の前にあるので、広告を打つ必要がないんですね。小売店の利益を圧迫してしまう広告宣伝費がほとんどかかりませんでした。いまだに「井藤さんのお店で、結婚するときの婚礼家具を買いましたよ。」と声をかけてくれる人がいるくらい、認知度のあるお店になりました。
昔は家具が高級品で、結婚とか、入学とか、人生の大きな説目で買う事が多かったんですね、ですからお客様の人生の大切な思い出に残る出来事にかかわる仕事ができたのは、とても幸せな事でした。
なるほど
他にはイトーヨーカ堂で出張販売会を開いたりしていました。家具は買ってくれた方のお宅まで届けます。当時はドライバーが10人位いました。それが現在の当社の配送部になっているわけですね。
その後、ホテルやレストランを手掛ける建築内装業を新たに起こしていくのですか?
はい、きっかけは花輪インターの新しくできた当社の新店を見て「こんな大きな店舗を構えて、人をたくさん使って家具を売る商売は、それほど長くは続かないのではないか?」と思った事なんです。
え?オープンしたばかりなのにですか?
ええ、何しろ家具というのは大きな商品ですから、場所代など維持費が非常にかかるんです。それでも高級家具が売れていた時代は良かったのですが、時代が経つにつれだんだんと安価な家具が市場に出回り始めたのを見て、「いつかこの商売は難しくなる。今のうちに新しい事業を起こさなくては」と思いました。「大きな時代の転換期が来たな」と思いました。
なぜ建築・内装の仕事に進もうと思ったのですか?
元々、浅草時代から家具をホテルやレストランに納品する事が多かったんです。でも都内は、どのお客さんのお店も小さくて、家具を持っていくと入らない。というようなことが度々あったんですね。そうするとお客さんが内装業者に頼んで壁を作り直して家具を置くスペースを作っていたんです。それを見て、「このくらいの工事なら私たちでもできそうだぞ」と思って始めました。
ですから最初は小さく始めた新規事業といった感じでしたね。需要はありましたので、もっと大きな仕事が取れる様に、内装工事の経験のある方に入社してもらったり、その頃から新卒採用をして、将来を担ってくれる人を育て始めました。その頃入社してくれた若者たちが今、当社を支える幹部になってくれているので本当にやって良かったと思っています。一人前になるまでは、本当に大変でしたけどね(笑)
一人前になるのには時間がかかりますよね。
その頃は本当に多くの事にチャレンジしていました。特注家具を作ると非常に利益が取れると気づいて、仲間の家具工場と提携して家具の制作をしたり、輸入絨毯が売れるという情報をつかむと中国まで仕入れに行ったりと、働くのがとても面白くエキサイティングな時代でしたね。
家具屋と内装業という2本柱で順調に会社が発展していったのですね
いえ、そうでもないんですよ。一人の幹部がせっかく育てた部下たちを連れて独立してしまったり、 「これからは資格の時代だ!」と言う事で資格を取らせると、他の会社に転職してしまったり、人材の面では大変苦労した思い出がたくさんあります。
少し話が戻りますが、花輪インター店はその後どうなったのですか?
昭和も終盤に差し掛かった頃からバブル景気の影響もあって、非常に繁盛していました。そんな折、平成2年ごろでしょうか、高速道路公団から「花輪インターの拡張工事を計画している。会っていただけませんか。」と連絡がありました。そして彼らが持ってきた花輪インター新料金所の完成予定図面を見てびっくりしました。私たちの店がないのです。「お宅の店舗がちょうど料金所の予定地になってしまっているので、何とか売ってもらえないだろうか?」と彼らは言います。
私は「以前から考えていた家具屋から脱却するチャンスが来たのではないか?」とも思いましたが、やはり相当悩みました。ひとまずは家具屋をする店舗を探してみたのですが、大きな敷地が上手く調達できなかったこともあり、思い切って家具屋に見切りをつけ、店舗の隣地に大型高級マンションを建てて不動産業に進出する事にしたのです。
家具屋の隣に土地を買い、マンションを作るまでには、それだけで1時間話せるくらいのドラマチックな展開があるのですが(笑)その話はまた別の機会に譲るとして、 その時、感じたことは人のつながりの大切さです。花輪インター店よりもさらに大きな規模の物件を購入するきっかけを作ってくれたのも人の縁ですし、 その後、不動産管理業がうまくいったのも人の縁でした。やはり人との出会いを大切にすることが、事業発展のかなめであると感じます。
なるほど、人と人のつながりが一番大切なのですね。お店を閉める時はどんな感じでしたか?
平成3年8月末から店じまいセールを開催しました。これが予想外の爆発的な売上を記録しました。お店から家具を無くすために売ってるのに、あまりに良く売れるという評判を聞いた家具メーカーが、在庫商品を売ってほしいと品物を持ってきちゃうんです。(笑) おかげで10月に閉店する予定が、12月末までセールを開催しました。
お店をしめる最後の日、家具がなくなって、新しくオープンする隣地のマンションに移す自分たちの机を運び出していたら、最後のお客が来たんです。私が「売るものが何もなんですよ」というと、その人が私たちの古い机を見て「会社の事務所に使う机を探してるんだ、これでいいから売ってくれ」と言って買っていったんです。(笑)あまりの事に、あっけにとられましたね。家具が売れなくて苦労したことが多かったのに、頑張っていれば最後にはいいことがあるんだなと思いました。
内装業は順調に発展していったのですか?
はじめはクロスやじゅうたんを張るくらいの小さなビジネスだったのですが、大きく進展したのは昭和60年代に入りマクドナルドの元請け工事をさせてもらえるようになってからですね。はじめは赤字覚悟でスタートしたんです。初めての工事は1千万の赤字。2度目はとんとん近く。3店舗目から売り上げと仕入が逆転し、4店舗目から黒字が取れるようになりました。
マックのすさまじい多店舗展開のおかげで当社も工事仕事を覚えていくことができたと思います。その後徐々にノウハウをつけていき、多い時で年間20~22店舗ぐらい手掛けました。右方上がりで内装依頼は増えていき、私は運転資金のために銀行員に頭を下げなくて済むようになりました。(笑)
その後ホテルの内装依頼が徐々に入ってきたのですが、マクドナルドのおかげで技術力が付いていたので、大きな物件でもスムーズに仕事をする事ができました。また、ホテルのオーナーさんはホテルを子供さんへ引き継ぎながら経営される方が多いので非常に息の長いお付き合いをさせて頂くことが多く、本当に感謝していますね。「お客さんが社員を育ててくれる」と良く言いますが、本当にそんな気持ちでいっぱいです。
時代はバブル崩壊という大きな不況に入っていくのですが、どうやって乗り切ったのですか?
これまでの年功序列の仕組みを止めました。仕事の成果によって給与が決まる年俸制にしました。その仕組みについて行けず、辞めてしまう人もいましたが、やる気のある若い社員が残って、増収増益を続けてくれました。また、高級マンションを取得したことで、そのマンションに福利厚生もかねて、社員を住まわせていたのですが、みんな住むところが安定すると、結婚していくんですね(笑)優秀な社員が会社に定着するようになりました。
なるほど、現在のKGRITの形に近づいてきましたね。
そうですね。その後も数年に1回ぐらいは外的要因による落ち込みが必ず起きます。最近ではリーマンショックや東日本大震災、コロナウイルスの影響などです。でも社員を育てていけば、彼らが自ら考えて、道を開いて行ってくれる様になるんです。
会社が長く続いた理由は何だと思いますか?
「同じ業種を長く続けないこと。」です。時代は必ず変化します。その時代に合わせて少しずつ業態を変え時代を一歩先行く組織を作り続ける事が、会社を長く続けられるコツだと思います。
社員のモチベーションを上げるコツはありますか?
自分が舵取りをするけれど、オールを漕いでくれるのは社員です。ですから私と社員に溝ができない様にいつも気を配る事が大切だと思います。それは社員同士でもそうです。なんでもお互いに言い合える環境作り、仕事が楽しいと思える環境作りが一番大切だと思います。
会長自身が一番おもしろいと思った仕事は何ですか?
今まで数々の新規事業にチャレンジして失敗と成功を繰り返してきました。私くらい意欲的に新しいビジネスにチャレンジした人はいないんじゃないかな。その中であまり売り上げにはつながらなかったけれど、歯医者さんが使う、口の中を撮影する小型のカメラ作りをしている時が一番面白かったですね。
カメラづくりですか?
ええ、例えば小型カメラに使う極小レンズがあります。大手メーカーに作ってくれと頼むと「1枚2万円だ」というのです。ところが、下請け会社をたどっていくと小さな町工場にたどり着き、工員のオヤジに話すと「1枚50円だ」って言うんです。(笑)物の値段と流通の、とても良い勉強になりましたね。そういった経験が、本業にも生きてきます。そう考えると失敗した仕事というのはないのかもしれないな。
必ず何かの役に立ってるんですね。最後に会長からこれからKGRITで働く人へメッセージをお願いします
はい、私が皆さんに送るメッセージは「野次馬になれ!」です。言い換えると「どんなことにも関心を持て!」という事です。新しい出来事。世の中で、はやっている事。製品の良し悪しや、値段など 色々なものを積極的に見て、自分なりの基準や評価する力を持って欲しい。
仕事の成績には運や不運があります。でも実際に自分が見たり体験した事は 自分だけの知識として決してなくなりません。色々な事に疑問を持ち、観察眼を広く持って物事に当たって欲しいと思います。
これからはますます東アジアが発展する時代が来ます。東アジアの若者の消費欲が上がり続ける限り需要はもっと伸びていくんです。日本という小さい世界に留まらないで、その時代に向かって新しいビジネスを切り開いていく人に、ぜひなって欲しいと思っています。頑張ってください!